コンセプト
M計画とは
今から100年前の1912年、あるカメラの誕生が写真界に革命をもたらしました。VEST POCKET KODAK、日本ではコダックベストと呼ばれています。1912年は日本で言えば大正元年ですので、要するに大昔のカメラです。コダックベストは一言で言えば近代カメラの嚆矢です。写真が発明されたのは江戸時代の末期ですが、当初は写真を撮るには特別な技術が必要で、カメラは大きくて気軽に持ち運べるようなものではありませんでした。人々はポケットに入るほど小型のカメラを持ち歩いて好きな場所で好きなものを撮ることを夢見るようになります。それを実現したのがコダックベストでした。ちなみに「ベスト」は「VEST」であることに注意して下さい。「ベスト(BEST)なカメラ」という意味ではなく、「ベスト(服)のポケットに入るほど小さいカメラ」という意味です。

さて、コダックベストが単に古いカメラならばそれだけのことです。問題はその一部に付けられている「ベス単」と呼ばれるレンズにあります。実際コダックベストという名前よりベス単という名前の方が有名です。日本人は特にこのレンズを愛しました。それも通常の使い方から外れた特殊な使い方をして楽しんだのです。
M計画ではまずこのベス単の正体を現代的な手法で明らかにします。そして、最終的には100年前と同じ写真をミラーレスカメラで簡単に撮ることができるレンズを発売します。
まず、ベス単で撮ってみる
ベス単という名を知っている人は皆「有名なソフトフォーカスレンズだね」とか「実に味のある写りをするんだよ」とか言います。しかし、どうしてそう思うのかと聞き返せば多くの人は返答に困るのではないでしょうか。「そういう話をどこかで聞いた」というのが実際のところでしょう。伝説と化したものの評価は往々にして実際とかけ離れたものになるものです。
コダックベストが実用機として使われていた時代に撮られた写真は残っていますが、それからベス単の実力を論じることはできません。当時はフィルム・現像・プリントに関する技術が今とは比べものにならないほど粗末でしたし、そもそもベス単が付けられているコダックベストはピント調節機構すら無いカメラで、作りも極めて大ざっぱです。撮った写真が味のあるものであったとしても、それがベス単というレンズのせいなのか他の原因なのかは全くわからないのです。
ベス単は有名レンズであるが故に今でもそれを使って写真を撮ろうとする人がいます。コダックベストを使って写真を撮るのは困難なので、ベス単を取り外し他の近代的なカメラに付けて撮影するというのがよく行われる手法です。著名な写真家がそのようにして撮った写真集も存在します(例「白い風」植田正冶ベス単写真帖 日本カメラ社 1981年)。ところがこの場合ほとんどの人はベス単を35mm一眼レフに付けて撮っています。手軽で良い方法ですが、問題はその画面サイズです。ベス単は元々コダックベストに付けて約65mmx41mmの画面サイズで撮るように作られていますが、35mmフィルムの画面サイズは約36mmx24mmしかないので、これで撮ると本来の画面の中央部、面積にして1/3程度の部分しか見ていないことになります。これでは本来のベス単画像を評価したことにはならないのです。(補足1)
ベス単を近代的な645判一眼レフ(実質的な画面サイズは約56mmx41mm)に付けて写真を撮ればほぼ本来の画像を得ることができ、ベス単の実力がつまびらかになる筈です。
世の中にはいいかげんでわからない方が幸せということもよくあります。大昔に引退した幻の美人女優がどこかで暮らしていると知っても訪ねて行くのは野暮というもの。しかし私は野暮な技術者なので、100年前のレンズを目の前に引きずり出してしまうことにします。

これは安原製作所が作ったベス単をPENTAX645カメラに取り付けるためのアダプターです。奥まったところに取り付けられているのがベス単です。アダプターはヘリコイドを持っており正確に無限位置にピントを合わせることができ、レンズ前50センチ程度までの接写も可能です。元々のコダックベストは固定焦点カメラでありピント調節はできず、各部の精度がミリ単位でばらついている大ざっぱなものです。このアダプターが完成したことによりようやくベス単の実力を知ることができます。
なお、このアダプターですが、ご自分で使ってみたい方が少なからずおられると思いますので、何らかの形で提供することを考えています。
禁断の手法「ベス単フード外し」
さて、ベス単で撮影する上で知っておかなければならない手法が「ベス単フード外し」です。この撮影手法はカメラの製造元のコダック社が推奨しているものではなく、どちらかと言えば禁止しているものです。ところが「ベス単フード外し」をしなければベス単はただの古いレンズであり、100年語り継がれる魅力は無かっただろうというのが面白いところです。
ベス単の前部には絞り調整レバーがあります。ポジションは左から右にかけて1から4まであり、数字が大きくなるほど絞られます。(絞り値は現代のカメラのようにF値で表示されていないのです。)興味深いのはこのレバーはポジション1のさらに左側まで動かせることです。しかし絞りの前には小さな穴の開いたフードが取り付けられており、穴の大きさがポジション1の絞り径と同じなので、レバーをそれ以上左に動かしても意味がないのです。
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絞りポジション1 |
絞りポジション2 |
絞りポジション3 |
絞りポジション4 |
もしこのフードが簡単に取り外せるとしたらどうしますか。チャレンジャーならフードを外してレバーをポジション1より左にセットして撮影してみるでしょう。これが「ベス単フード外し」という行為です。
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絞りポジション1 |
禁断の絞り領域 |
もちろんフードの穴で絞りの開放径を制限しているのには理由があります。絞りを大きく開けすぎると「球面収差」というものの影響が大きくなり画像がソフトフォーカスになってしまうからです。(収差とは光学用語でレンズの持つ欠点のこと。球面収差はその一種。)ベス単の設計者はこのソフトフォーカス画像を使用に耐えないと判断し、開放径を制限したのです。
もうおわかりだと思います。ベス単はソフトフォーカスレンズではなく、「特殊なな使い方をすればソフトフォーカス画像が撮れるレンズ」なのです。通常の使い方をすればごく普通のレンズです。
試写結果
それではベス単で写真を撮ってみます。まず始めに「ベス単フード外し」で絞りを全開にして撮ってみましょう。この特殊な使い方が「日本における標準的使用方法」だからです。
ベス単が撮った「100年後の」神戸(フード外しの状態で絞り全開で撮影)
この夢を見ているような画像はレンズの球面収差が生み出したものです。画像をクリックすると拡大しますので、特にハイライト部分の光のまとわりつきかたを見て下さい。ソフトフォーカス画像を得るには他にもいくつかの方法があり、現代では画像処理ソフトを使ってシャープな画像から簡単にソフトフォーカス画像を作ることも可能です。しかしそれらはソフトフォーカスの発生原理が違うので、ベス単で撮った画のようにはならないのです。
ベス単は絞り込むことにより球面収差が減少し「普通のレンズ」になっていきます。絞りを使ってソフトフォーカスの「効き」を調節できるのが面白いところです。
なお、ベス単に関する古い文献を見ると「ベス単で撮った画像は周辺部は使い物にならず、まともなのは中央部だけ」という記述が散見されますが、こうして実験してみるとそれが間違いであることがわかります。画面の端までかっちりした画が得られていますし、極端な周辺光量低下も認められません。おそらく他の原因で周辺部の画質が低下したのをベス単の性能と見誤ったのでしょう。(コダックベストはフィルムの平面保持能力に問題があります。あるいは引き伸ばし時に生じた問題を撮影レンズの性能だと勘違いしたのかもしれません。)本に書いてあることを鵜呑みにしてはいけないのです。
神戸・湊川神社(フード外しの状態で絞り全開で撮影)
木漏れ日の中での撮影はベス単の特性を際立たせます。射し込んだ光とその広がりが複雑に絡み合い独特な雰囲気を作り出します。(クリックで拡大します。)なお、ベス単のソフトフォーカス画像はピントが合っているように見える範囲がとても広いという特徴があります。焦点距離は約70mmなので実際はそれほどピントの合う範囲(被写界深度)は広くないのですが、各部が芯のあるぼけかたをするのでそう見えるのです。
インキュベータ(フード外しの状態で絞り全開で撮影)「ぜひクリックして拡大してほしいものだね。」
ベス単は何気ない現実の風景を魔法の世界に変えてしまう不思議な力を持っています。しかしこのソフトフォーカス画像は主に日本人のみに好まれたのです。コダックベストの本国である米国やヨーロッパでもフード外しの技法は知られていたでしょうが、愛好されたという記録がないのです。
「コダックベストのレンズ = ベス単」 ではない
既に書いたことですが、ここでおさらいです。ベス単という名前はあまりにも有名なので、「コダックベストのレンズ=ベス単」と勘違いされることがよくあります。正しくは、コダックベストに付けられている様々なレンズのうち、基本となる一番構成が簡単で安価な(悪く言えば安物の)レンズがベス単なのです。
ベス単は「単」という名前からたった1枚のレンズから出来ていると誤解されることが多いのですが、実は2枚のレンズが張り合わされた構造をしています。光学的には「1群2枚」という構成です。それでも最も単純な部類のレンズであることに違いはありません。同時代には構成がより複雑で高性能なレンズが存在しました。コダックベストにはそれらの高級レンズも取り付けられ販売されたのです。
ベス単以外のコダックベスト用レンズの試写結果は機会をみてこのページに掲載したいと思います。これらのレンズは当然ベス単より性能が良いのですが、今まで特に語られることはありませんでした。性能が良いことと愛されることは別なのです。どの分野でもよくあることです。
以下、続きます。
不定期に更新します。たまに覗いてみて下さい。









